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そこなう :: 2015/02/17(Tue)

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こんなに寒い日がつづいているのに、世の中はもう既に春に目をむけていることにおどろく。
雑誌や街のショップ、テレビコマーシャルなんかがこぞって春のマストアイテムやら流行先取りやらを打ち出して、にわかに活気をとりもどしていくあの感じ。



春はきらいじゃない。
きらいじゃないけれど、植物ばかりが活き活きと生命力に溢れ、命をふきかえすような雰囲気は苦手だ。
まるで狂ったみたいに咲く色とりどりの花や、桜ふぶきのすさまじい勢い、草花の緑色にかがやく健康的な血色をみると、これから先のことを憂いてしまう。
理由なんてない。
春は、人間の生命力を奪っていく何かがあるとおもうのだ。





01:17。
BGMは、Stina Nordenstamで『Bird On A Wire』





昼間の寒さと暖かさのせめぎ合いみたいなどっちつかずな気候と、朝晩がもっともいちじるしく暴力的な寒暖差は、俺をげんなりさせる。
自転車で出勤する俺としては、暑いなら暑い、寒いなら寒い、丁度いいなら丁度いい、のいずれかにしてほしいところだけれど、そうもいかないらしい。
この上、向かい風なら尚更うっとおしい。
ペダルは重く、髪は風にさらわれて無惨にもぐしゃぐしゃで、つめたい風と相反するような陽の暖かさのせいで、厚手のアウターを着た俺の背中はひどく汗ばんでいる。
Tシャツがぴったり張りついて不快だし、風を入れようと裾をひろげてみると、冷気が俺のしめった背中からさらに体温を奪っていく。



たとえば、と、俺は思う。
たとえば、悲しいなら悲しい、嬉しいなら嬉しい、というように、どちらかの気持ちに寄り添って感情移入できれば楽なのに、と、ひどい心もとない気持ちで考える。
けれど現実には、そのどちらにも寄り添えない自分がいたりするのだ。
目を閉じてみると鬱々とした気持ちがじわっと目頭の裏から全体にひろがっていくけれど、空は清潔なみずいろで、どこまでも高く澄みきってまるで水の中みたいな気がする。
水の中で俺は、ぐにゃぐにゃ歪んでみえる陽のひかりが影を作り、同時に宝石のように丸くきらめく光の輪が辺り一辺にちりばめられているような錯覚をおぼえる。
星のようだと思った。
星が光を放っていられるのは、きまって闇のおかげだ。
闇は光より何十倍もおおきくて、すっぽりとこの世界を包み抱く。
その中で俺は、ちりばめられた小さな光や大きな光をみつけて、わずかに霞んでみえるそれが紛れてしまわないように、目を凝らすのだ。



突然、自分がこの光の輪のもとにほんとうに存在しているのか、わからなくなった。
俺はここで何をしているのだろう。
もしかしたら俺は、光の輪の外側にいるのかもしれない。
闇に扮してとおく輝くそれを見届けているような気がしてくる。
闇に紛れてしまったのは、俺のほうかもしれないと思い、これが現実なのかそれとも、ペダルを踏みすぎて引き攣りそうになった太腿の筋肉の緊張をほぐすための空想だったのか、にわかにわからなくなった。



ただひとつ思うのは、闇の中は安全だということだ。
自分を隠すには丁度いい。
暑いのか寒いのか、悲しいのか嬉しいのか、いらついてるのか浮き足立っているのかをごまかすには最適な隠れ蓑だ、と、思った。
すべてを白日の下にさらしてしまう光の輪は、春の植物じみた活発さであかるさを強めるばかりだった。





子どものころ、子どもというものがおそらく皆そうであるように、無邪気で無意味な殺戮がだいすきだった。
それは蟻の行進に水を数滴たらして、そのかんぺきな大名行列をかき乱すのを楽しんだり、みみずを掘り起こしては、枝やスコップで真ん中からまっぷたつに " ぶった切ったり " することで、文字通りそれは、子どもながらの無邪気でとめどない好奇心からくる殺戮だった。



蟻に水をたらす瞬間、俺はほとんど高揚した心持ちでどきどきしている。
興奮、といってもいい。
両手のひらで簡易的な受け皿をつくり、そこになるべくなみなみと水を溜めて、大名行列の上からすこしずつ零していく。
蟻が恐怖におののき、列がにわかに乱れほうぼうに散らばる様をみるのはひどくおもしろかった。
水をかぶった蟻は水滴のなかで無惨にも手足や触覚をじたばたさせて、ふりかかった災難から脱しようと必死だ。
俺はぼとぼと零れおちる受け皿から、とどめのつもりで一気に水を解放する。
ほうぼうに水が飛びちって、犠牲となった蟻がおなじように無様な醜態をさらす。



みみずはもっと残酷だ。
校庭の、陽の当たらないじめじめしたところに彼らはいて、石をひっくりかえしたり土をちょっと掘りかえしたりすると、すぐにそれは姿をみせる。
にょろにょろと気色の悪い動きで、おそろしく醜い容貌の彼らをみつけると俺は嬉々としてそれを弄んだ。
指先でいたずらにかどわかしたり、スコップで持ちあげて上から転落させたり、そういうのだ。
みみずは大抵激しくにょろにょろする。
それはもう、この世のおわりみたいな動作で逃げる術を模索し、殺戮の手からのがれようとあがく。
けれどそれは無駄なのだと俺にはわかっていた。
一度みつかったら、殺戮からはのがれられない。



俺はスコップでみみずの真ん中をぐっとおさえる。
みみずはその瞬間まで激しく抵抗して、どっちが頭だか尻尾だかわからない両端を、きっと生まれて初めてなんじゃないかとおもうほど力強く俊敏にうごかす。
俺は自分がびっくりするくらい興奮しているのに気づいて、すっかり楽しくなっていた。
じわじわやるときもあれば、一気にやるときもあった。
そのせつな、みみずの体は真ん中で分断され、かわいそうに終わったあともいつまでもうごきつづける。
ただ、さっきまでの威勢の良さはもうない。
頼りなげに、あるいは苦しげに(どっちがそれとはわからないけれど)頭をゆらし、体をねじる。
悶絶しているみたいに。
引きちぎられたふたつの体は、まるでなくなってしまったものを求めるように蠢きつづける。
胴体を修復しようとしているみたいに。



俺はその殺戮がすきだった。
自分が別の人間のような気がして、そのおそろしいまでの心ない行為を完遂する自分が、自然のなかの弱きものを蹂躙している感覚がたまらなかった。
子どもが皆そうであるように、ひどく無力だったから余計にそういうことが楽しかったのかもしれない。




みみずがその後どうなるのか、俺にはわからない。
ただひとつわかるのは、あの頃の殺戮はいつのまにか行われなくなったことだけだ。
いつのまにか、あの頃の殺戮者としての " なり " は影を潜め、俺は虫や自然に恐怖するようになった。
しめった土や陽光をさえぎって暗く重圧感たっぷりにかまえる木々を、俺はこわいと思うようになっていた。
蟻やみみずの仕返しなのかもしれないと思った。
自然の秩序を故意に乱し、身勝手にもほどがある暴力を、そのころの記憶が、自分自身をけん制し、封じこめたのではないか、と。



あの頃の俺にはもう戻れないと思う。
いつのまにか、そこなわれてしまった自分自身がまるで別人のようにおもえた。
引きちぎられたみみずのようにもう片方を探すけれど、それは永遠にひとつにはならない。





植物を美しいとおもう気持ちとか、いとおしむ気持ちというのが俺にはすっぽりと抜け落ちてしまっている。
りっぱに花を咲かせた桜の木でさえ、俺の目には荘厳すぎてしかたない。
自然は、いつのまにかどうしようもない恐怖としてそこにあった。
抗いようのない事物として、ただ茶色い枝をしほうはっぽう這わせて花をつけるそのすがたや、老人の皮膚のように深く刻まれたあまたの皺がより恐怖じみている。
そこから、あんなに綺麗な花が咲いて、それが風にのってなだらかに落下していく様をみていると余計こわい。



恐怖の対象は、それが集団になればなるほどより狂気じみてみえる。
思い出すのは、あの桜ふぶきだ。
桜並木の道で花びらが落ちていく。
地面にみじめに張りついた花びらは薄ピンクじゃなく、つぶれて破け、茶色く変色してしまって汚らしい。
それがどんどん積もって、ひっきりなしに俺の心を掻きむしった。
こんなの正気じゃない、と、おもう。
桜が美しいのは木に花をつけているときでも、それが開花したときでもない。
こうして生涯をおえた花びらたちが、自らを悼んでいるような気さえする、いまこの瞬間がいちばん美しいと感じた。
もう死にかけのピンクが、地面におちてもなお鮮やかに輝いている。
それらが密集していると、勢いよくふってくる花びらにかき消されてしまうような、まるで自分がモザイクのように細かい粒子になってしまったんじゃないかと錯覚したりした。



それで俺ははっきりと自覚する。
そこなってしまった、と。
光の輪はもうみえない。
花びらが狂ったように降りしきる並木道で、俺は桜がちるたびに思い出すだろう。
そこなわれてきた自分と、過去を。
闇はすっぽりと俺を覆い尽くす。
春ののんきな陽気のなかで、やわらかな陽射しとともに影を映しだした。
それを見て、光があるから影もあるのだと気づく。



かつて殺した蟻やみみずを思った。
殺戮をくりかえしたことを思い、殺戮者だった自分自身を思った。
もうあの頃の俺はどこにもいないけれど、桜ふぶきの中で消えかかっている俺は、自分がそこなってきた過去と、そこなわれようとしている今の自分自身を思った。
このままこの花びらたちのように、綺麗なものから薄汚く踏みつけられるただの残骸として朽ちていく過去を、ふかく悼んだ。
ふかくふかく悼んで、俺は自分が、もうとうの昔にそこなってきた残骸を心の中で拾い集めようとしていることを知っている。
踏みつけられて薄汚くすり切れたとしても、色がかわって二度と元の美しいそれになれなくても、そこなわれてしまった何かを補うようにして、俺は思い出しつづけるだろう。





そこなわれてきた。
一日一日、そこなわれている。
指先のささくれも、艶やかだった髪も、傷のなかった左腕も、かつて好きだった人たちも全部、そこなってきた。




これからも、毎日何かをそこなっていく。
毎日同じような顔で、違う日常を、いつもと同じ日常として生きていく。
自分の一部をそこないながら。
どうしようもなく生きるのをやめられないから。





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許されざるひと、許しを乞うひと :: 2015/02/14(Sat)

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輪郭のはっきりした恋をしたのは、多分いまの彼氏が初めてだと思う。
" 輪郭のはっきりした " というのは、たとえば自分の度をうしなうことのない範疇、という意味合いで、自分の気持ちを手にとって、ながめ、頃合いを見計らってそれをうまいぐあいにコントロールできるだけのはっきりした恋、という感じだ。
もっとも、恋する気持ちをコントロールするのがうまくなったとしても、誰かと二世をちぎるのは至難の業だというのにかわりない。





ひととひとが一緒に暮らすことが難しいように、ひととひとがおなじ(あるいは " 似た " )気持ちを持続させるのも難しい。
もしくは、気持ちをどう変換させていくのか。
恋をしていると自覚したときの自分と、その恋が成就したあとの自分、倦まずたゆまずそれを持続させていくことなんて出来るのだろうか。
ひとの気持ちが移ろいでいくのなら、恋が恋じゃなくなったときにそれはどんな輪郭の " それ " になるのか。



恋がこちら側の岸で、恋じゃなくなったものが対岸なのだとしたら、それはやっぱりまるで違うものなのか、俺にはわからない。
岸と岸のあいだには川が流れている。
ほそくて長い、けれど流れのはやい川が、おなじ目的地にむかって流れつづける。





22:31。
BGMは、Adeleで『Set Fire To The Rain』





誰かと付き合うということが、こんなにも長続きしたのは今の彼氏が初めてだ。
それまで経験してきた恋は、それを恋と呼んでもいいのなら、お粗末にも恋に恋していると言ったほうがいい。
ひとりだけ、身も世もなく恋をした男は居たけれど、それも泥に伏して砂を噛むような、きついものだった。



ひとを好きになると、個人差はあるかもしれないけれど俺の場合、「シアワセ」とか「ジュウジツ」とか「ゼッコウチョウ」なんて楽観的なことばじゃ対応しきれなくなるくらい、やつれる。
痩せほそって見るも痛々しいすがたになる、というより、心がすり減るといったほうがいい。
心を使いすぎて、心を投じすぎて、疲れ果ててやつれるのだ。



たとえば、相手への投資。
好きな男がとんでもない甲斐性なしか、びっくりするくらい金回りのわるい男だったら、惚れた側としてはどうにかして助けてあげようとするものだ。
でもそれって、たいがいは自分の不手際や考えなしの行き当たりばったりな性格が原因のパターンが多いので、むしろその負の連鎖から抜けだせなくなってしまう。
ゲイでよくあるのは、顔がものすごーく良い男が、(あらゆる理由で)信じられないほど金がなくて、十人並みの顔の男がその「顔だけ能なし男」に惚れこんでじゃんじゃん金をつぎこむパターンだ。
じっさい、そういう図式のカップルは多い。
特に歳がはなれていると、そういう状況に陥りやすい。
そうしてその手の男は、完全に度をうしなっているのだ。
歯止めをうしなって、金を与えて心を投じすぎて、知らないうちに破滅への階段をのぼっていく。
自分で自分を律することもできず、ひたすら惚れた晴れたのために、経年劣化したら見るも無残な男の世話を焼きつづける。



こんな場合もある。
ネットで知り合った男に勝手に自分の理想や想像を投影して、えんえんと続く遠距離恋愛をみずから選択してるつぼに嵌まる場合。
そういうときのひとの心理は、大抵、そこに自己中心的なドラマを仕立てて自分を主演にして演じている感じにちかいと思う。
道ならぬ恋、というか、障害のある恋に惹かれてしまっていて、ほんとうの相手への気持ちがみえにくくなってしまうこと。
(昔の俺は、きっと紛れもなくこれだと思う)



恋に恋していると、向かう先は自分自身の破滅か気持ちの消滅かの、どちらかだ。





「なんでさぁ、帰ってきた途端そんな不機嫌なの?」
いらついた口調で言う彼氏のことばに、もっともだと思いつつ引くに引けなくなった俺は不機嫌な俺を演じる。
仕事がうまくいかなかった日や、嫌なことがあった日、うまく立ち回れなかった日なんかは、終わったあとまるで泥水に雨が打ちこむみたいに気持ちが淀んで掻きまわされる。
そうして仕事終わりの俺を迎えに来てくれた彼に、釣れない態度をとってしまうのだ。
しゃべらなかったり、あからさまに空気を悪くしたり、顔をちゃんと見なかったり。



「仕事してんのは俺も一緒だし俺だって疲れてんだよ。なのにそんな態度とられるとさ、まじバカみたいだよね」
彼が厳しく言い、ついで「バカにすんじゃねぇよ」と吐き捨てる。
何様のつもりなんだよ、と。
そこで俺は初めて、彼から与えられたチャンスを受け入れ言葉としてそれを表出させることができる。
「……ごめんなさい」
まるで子どものように、俺は彼から与えられた素直になるチャンスを活かす。
すべては自分の子どもじみた性格が原因なのだと非を認め、理にかなった態度をとるべきで(「迎えに来てくれてありがとう」とか)、こんなふうに相手を不快にさせ失望させるべきじゃない。
わかっているのにときどき、どうしようもなく凶暴な自分を抑えられなくなる。
彼をひどく傷つけたいと思って、じっさい傷つけてしまったあとで、気分の悪くなるほど後悔におそわれるのだ。



「……知らん」
彼はそう言うか、あるいはまったく無言で車を発車させる。
ハンドルを切る手はいつもより粗く、まだ募るいらだちを振りきれていないのだとわかった。
俺はひたすら待つ。
彼がいつものように意地悪に、俺の腕をつねったり頭をぐしゃぐしゃに掻きまわしたりするのを待って、怒られてしゅんとした子どものように助手席のシートに身を委ねる。
車のスピードはごく平均的で、彼は怒りに任せてけっして荒々しい運転はしない。
夜は濃い紫色で、町のまばらな明かりが明滅して生活感のある対向車のダッシュボードの人形や置物がばかばかしくかなしげにこちらを見ている。
途中コンビニに寄って、朝食に食べる菓子パンやコーヒーなんかを買うためにはじめて車外に出たりする。
車を停車させて、はじめて彼は言葉を発するときもあれば、ふっと緊張がとけたように笑うときもある。
「今度おなじことで腹立ててたら、まじで知らないからね」
そう言って同時に、この話はおしまいだ、という意味も内包されていると知っている俺は、うん、とあいかわらず子どもっぽく頷く。
「はい!これでおしまい!」
たまに彼がそう口に出して宣言したりして、またいつもの彼に戻って、さっさとパン買って帰るよ、などと言う。



恋愛に関することなんて、何ひとつ確かなことはわからないけれど、ひとつだけ自信を持ってわかっていることがある。



恋人関係にある者同士はかならず、どちらか一方は、常に相手から「許されて」いる。
許されつづけている、と言ってもいい。
片方は恋人を許しつづけて、もう一方は許されつづけることで、関係の破綻を回避できているのだと思うのだ。
恋や愛とか、そういう観念的なものじゃなく、「相手を許せるか」どうかがそのあとのすべての出来事を左右するのではないか。
何か腹の立つことがあっても、それをさっぱり水に流して、元通りのテンションで恋人に接することができるか。
ひとは、誰かと関わりを持つとき、「許すひと」と「許されるひと」という役割を担わされるのだ。
否応なく。ほとんど強制的に、それは振りわけられる。
それが成立しなければ、恋愛も成立しないと、俺は思う。





恋が恋じゃなくなったものが何なのか、俺にもわからない。
愛なのかもしれないし、情なのかもしれない。
憐憫かもしれないし、拘泥かもしれない。
でも、と、俺は半ば無理やり思ってみる。



でも、そのどれも、相手に関心がなければ出来ないことだ。
愛がなければ、情も憐憫も拘泥もない。
あるのはただ、枯れ果てた大地のように広大で、途方もない " 無関心 " だけだ。





恋がこちら側の岸で、恋じゃなくなったものが対岸なのだとしたら。
岸と岸のあいだには川が流れている。
ほそくて長い、けれど流れのはやい川が、おなじ目的地にむかって流れつづける。
でも、岸は必ずどこかで繋がっているはずだ。
遠回りになるかもしれないし、ひどく歩かなければいけないかもしれない。



それでも、対岸がいつか繋がることを目指して、陸地を渡るのだ。
そして、もし出会うことができたら、そこから川の流れを辿っていけばいい。
目的地にむかって。
恋の先を見るために、それが、自分の信じる希望であることを願って。





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解ってくれなんていつ言った? :: 2015/02/08(Sun)

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理解できないものを理解しようとすることが、最善の策とは限らない。





ここ数日での、ISILがおこした一連のテロ行為とその惨状がテレビから流れてきたときに、それを嫌悪や憎しみ、恐怖のまなざしで傍観してあれこれ議論し、答えを出すことが、ほんとうの理解ではないんじゃないか、と、俺はおもう。
それらは彼らの " 負のエネルギー " として、彼らの独裁をより強固にしていくだけの理由にしかならない。
テロは絶望の深淵をみてしまった人間にしかわからない行為だ。
テロを理解することは、絶望を理解することで、絶望を許すことは、希望を捨てるということでもある。



逃げなければいけない。理不尽なものからは、逃げなければいけない。
そして、絶望に打ち勝つためには、希望をもつしかないのだ。
" 希望 " のない場所じゃ、 " 絶望 " はすぐに回帰してくる。





22:05。
BGMはBritney Spearsで『Perfume』





魔女狩りはいつの時代も公然と執り行われてきました。
黒人への差別と暴力、それに伴う公民権運動。
奴隷制度、カースト制度。
さまざまな国が、自国のためにと行ってきた捕虜問題。
女性軽視と家父長制。
LGBTへの偏見と軽蔑。
キリスト教とユダヤ教、イスラム教などの宗教上の対立。



それぞれがそれぞれの信じる正義のために、糾弾や弾圧があり、差別や偏見があり、宗教と戦争があり、だからいくら理解しようとしても、到底無理なはなしだと思います。
理解するという行為は、じぶんの思う「正義」の教科書で判断するんじゃなく、そこから一歩踏みこんだ「他人の意見を聞き、咀嚼し、考える」ということが出来なければ、結局はおなじ悲劇の繰り返しだとおもう。俺は。





世の中は「理解すること」を、押し付けすぎなんじゃないかと思う。





たとえば、ゲイやレズビアンが偏見や差別に曝されたときに擁護してくれるのは、異性愛者のひとたちがそれを本当に理解してくれたからなのか? というと、そうとも言い切れないんじゃないかなぁ、と、すこしだけ思います。
彼らのいう「理解」は、「容認」であり「許容」であり、それが対等な立場での理解なのかというと、疑問符がうかぶ。
そもそもこの世に " 対等 " なんてあるはずがない。
男女平等、男女共同参画社会なんて、ほんとうに? と、疑ってかかってしまいます。



マツコデラックスが以前テレビで、


「男女平等っていうのは、男に合わせられる女が平等だというだけで、基本的に男と女じゃ社会的な役割がそもそも違うわけだから、平等なんてあるはずがない」


というような事を言っていて、言い得て妙だな、と、感心しました。
男が理解できる女は、じぶんと対等に話せて同じ量の仕事ができる相手のことを指していて、それ以外はただの " 女 " でしかない、と言うと言い過ぎでしょうか?



でも、男って自分勝手なひと、多いですよね。
女の子には煙草は喫ってほしくない! とか、家で下着姿とか、だらしない格好しないでほしい! とか。
結構、男の価値観って偏狭なんです。
まぁ、男が一方的に悪者だと言い切るのは、さすがにしませんけど。



男女間の問題や、LGBTの問題なら、まだ議論の余地もありますし、心から理解を示してくれるひとも居るかもしれませんけど、これがもし、ロリコンだったりペドフィリアだったら、どうでしょう?
ロリコンって、一般的にいってちょっと「後ろめたい」ですよね。
何故なら、子どもは大人よりも弱くて性的にも未熟だから、" そういう対象 " にするには、いささか人間としての真価が問われやすいからではないかと思います。
特に性的な側面ばかりが強調されてしまうので、嫌悪感をおぼえる人も多いですし、その手の指向が一ミリもない人には、そのような事は言語道断、理解するまでもないと切り捨てられてしまうわけです。



勿論、それらを理解することは当然、当事者でない人には無理でしょうね。
あまりそういう事を考えない人だと特に、倫理観や先入観がまず最初にあるので、よけいに拒否感を示すのだと思いますし。
ただ、多くの場合、ロリコンの人たちはひっそりと、静かに暮らしていますし、分別のある人であれば、自分の性欲くらい自分でコントロールできるはずです。
(だから俺は、ロリコン向けのアニメや漫画を規制する動きには、反対です)



ひとは自分の生まれ持った内的な境遇からは逃れられません。
ある日とつぜんそれと向き合わされる羽目になって、どうにかしてそれと折り合いをつけて生きていかなければいけないのです。
どうして、ロリコンであるというだけでその人自身を否定されなければならないのか。
子どもに実際に手をかけたわけでもないのに、必要以上に悪者にされすぎているんじゃないか。





理解できないものは排除される。
魔女狩りは公然といまも、どこかで執り行われていることです。





ゲイである自分を理解してほしいなんて思わないですし、理解が得られたからといって、それが容認や許容であるのなら、必要ありません。
ただ知ってほしいだけで、そっとしておいてほしいだけで、受け容れてほしいだけで。



昨日の記事でも書きましたけれど、受け容れるということは、乗り越えることでもあると俺はかたく信じています。
俺はゲイである自分を受け容れて、その人生を生きることを選んだ。
ロリコンやペドフィリアの人たちも、自分の境遇を心底呪って、憎んで、悲嘆したとおもいます。
けれど、受け容れることで、" 絶望 " が " 希望 " へと変換されることもあるんだと思います。そう思いたい。



理解なんてしなくていい。されなくても構わない。
ただ現実を知って、受け容れてほしい。
そうしてもらえれば、みんなが希望を見つけられるんじゃないか、と、ばかげた夢を見るみたいに、俺は信じています。
絶望を受け容れてしまえば、そこから前を向くこともできるはずだと。
それが出来るのは、この世で人間だけだとも。





「希望は残ってるよ。どんなときにもね」





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